活動記録

施術家 吉田正幸のブログ

2005年整体スクール寺子屋時代 第三章

フィットバランス療術学院加速成長時代

2004年という年は直営店舗にしても、独立開業専門整体スクールであるフィットバランス療術学院にしても、加速的に成長した年で、ここから一気に噴出していくような感覚でした。

必要な人が必要なときに集まって、自然に仕事が回っていくという、そんな感じ。

今まで一日中張り付きで施術していた生活が変わっていきました。新規店舗立ち上げ、独立・副業専門整体スクール「フィットバランス療術学院」の急稼働で施術日を減らさなくてはならない状況となった。

一日の施術の流れ

月曜日から土曜日まで朝は8時30分から夜は20時以降まで施術し続けました。多い時は一人で一週間、200名以上施術したり。

今までは自分の仕事は自分でしたいという職人気質まるだしでしたが、そうもいきません。

施術に関しては、今まで来ていただいていた患者さんのことを思うととても辛かったというのが正直な気持ちでした。

しかし、ひとり親方である整体職人から経営者に変化していかなければならない状況となり、捨てるものが出てくることは仕方がないことです。

例えていうなら、「水が一杯になったバケツにはもう水は入らない」ということです。2004年はそんな年でした。

新しい出会いと共に、長年いてくれたスタッフもひとり・・・ふたりと辞めていきました。トップが変われば組織は変化します。

いちいち感傷的になっても、これもまた仕方のないことなので割り切るしかありませんでした。

そして、この年の年末にはすでに学院の4期生の授業が始まります。

何もかもが物凄いスピードで過ぎ去り、カラダとココロの振動数が一気に変革していくような感覚だったことを今でも時々思い出します。

そして、職人としての施術家から、セミナーが増え、気づくとセミナー講師のような仕事が中心となって、大阪、東京、名古屋、福岡と点々と周りました。

整体の技術と集客に関する独自のコンテンツを伝え続け、書籍の出版も相成り、フィットバランス療術学院には入学生が後を絶たない状況になったのです。

三軒茶屋のビルの1階が店舗、2階が事務所件教室。気づくとすでに手狭になり、3階は別の会社が入っていたので借りられません。

しかし、4階のワンフロアーが空いていたので、間髪入れずにすぐに借りて、ベッドを引き詰めて教室にしたのです。

4階建て一棟のビルの3階以外、すべて借りて日々の業務をこなしました。更に入学生は増え続けました。

そして、学院と整体院の加速的な日々をブログに綴るとさらに全国から人が集まってきました。ブログのランキングがトップとなり、みんなで喜びました。

この時の事務局のスローガンは「次は表参道に行くゾォ!!」

スタッフも増え、事務も学院講師も含めてセミナーやテキスト作成をよくこなしてくれました。人が集まるところにはエネルギーが宿ります。

整体の技術に関しては、施術数というものが技術向上には欠かせないと思います。
たとえば、ひとつの手技を一週間で200回反復できる環境にあったので、自分だけではなくスタッフも加速的に手技の取得ができたのです。

ですから、技術向上の速さは集客数と比例しますね。

いろんな生徒さんが入学してくれした。

福岡で200名以上すでに毎日集客している接骨院の先生。岡山で人気の歯科医の先生、埼玉で多店舗展開で成功され、敏腕経営者の先生。

施術関係者だけでなく、優秀な外資系営業マン、中国漢方士、薬剤師、理学療法士、エステティシャン、内科医師、そして、トラック運転手にサラリーマンからOL、主婦まで。

あげればキリがありません。

こんなに沢山の異業種の方々に短期間でお会いしたことなんて今までにありませんでした。

そして、一番初めに入学した女性の生徒が卒業することになりました。

この女性は大変優秀な生徒でした。

スタッフとして面接に来た時に、僕の施術を受けて感動したといい、通っていた3年制のカイロプラクティック専門学校を退学してしまったのです。

そして、当整体スクールに入学しなおして、優秀な成績で卒業してスタッフとなりました。その後は講師としても大活躍してくれました。

少し遅れて、卒業した男性は福井でカイロプラクティック治療院を開業していましたが、中々集客に恵まれずに院を畳んで弟子入りしました。彼も真面目で手技も上手かったですね。

このふたりがやがて僕の右腕・左腕となり、講師として、スタッフとして大活躍してくれることになったのです。続きは次回に。最後までありがとうございました。