人生

とんがる、そしてぶっ飛ぶ

かっとぶ、ぶっ飛ぶ

会社にしがみついていると、あっという間に時間が経ってしまう。
一日のルーティンがほぼ決定しているので隙間時間の有効活用は中々できない。
でも、やりたくないけれども毎月一定の給与がもらえる。
辞めて独立するには物凄い勇気がいるんです・・・・・。

これは実際にサラリーマンから独立開業を目指している方から聞いた言葉。

「なんでリスク背負ってでも飛び出さない?」なんて軽く聞いてしまう。

考えてみれば、僕は世間から逸脱している人生を歩んできた。

少し、自分の生きてきた道程を書いてみます。お付き合いください。

私大付属の高校に入り、親は大学だけでも出てくれればいい、なんて
考えだったのだろう。
親の希望通りにいかないのが子の役目。

結局、小学生の頃、JUN、VANという相反するブランドの服に出会ったことが
きっかけで服に興味を持つ。
単純にカッコつけてモテたいっていう気持ちだけが極端に先行していたのは
間違いなし!! マセてるガキだった。

中学生の頃、やはりとんがっている奴がいた。
ソイツの家に行くと海外のファッション雑誌がずらっとあった。
恐らく父親が貿易関係かなんかだったかな。
ハーバード大学、プリンストン大学、イェール大学・・・の学生から流行った
アイビーファッションの洗礼をこのときに強烈に受ける。
そして、プレッピーから古着、デザイナーズブランド、流行る前にどれだけ流行るものを
着ているかが勝負だった。今から考えるとアホらしい。

そして、、、渋谷・原宿を闊歩した。

音楽も聴きまくった。
ジャンル問わず小学生からいろいろ聴いた。ビートルズからハーブアルパート、
Mからバグルズ、日本のフォークからYMOやヒカシューにP-Model、他POPミュージッ
ク、津軽三味線まで・・もう、メチャクチャ。
多分、東京の高校生の最先端でトンがっていたと思う。

そのとんがりが高校2年生の頃、ふと、テレビをつけたら・・・
丁度、不思議なタイミングでファッションショーをやっていた。
小綺麗な男女のスラっとしたモデルがいろんな服を着ていったり来たり。

ファッションには興味があったが人が着てるものに興味はない。

そのショーの終わりにひとりのオヤジが中央から素晴らしく綺麗なモデルに囲まれ、
浮かれて出てきた。この服をデザインしたデザイナーだ。

物凄い拍手と喝采・・モデルと共に花道のど真ん中を歩いてきた。満面の笑みで
物凄いオーラを感じた。それが三宅一生。

自分がデザインして、創りあげるということで素晴らしい作品が生まれ、
たくさんの感動を得られて、称賛される・・・・・。

僕はファッションデザイナーになろう、そう決意した。シンプルなものだ(笑)

そして、親を説得して付属の大学は行かず、ファッションの専門学校に入学した。
全国からとんがった奴らが入学してきた。
好きな世界へ入ったからそりゃ頑張った。成績も良かったと思う。

しかし、やはり出会いがどんどん人生を変えていく。
ひとりの先輩と出会った。
彼は既成には無い、すでに自分で創った独創的な服を着ていた。

とんがってる・・・ではなく、ぶっ飛んでいた。

かなり色濃く影響を受け、自分も作ったり、その辺では売っていない民族衣装やら
古着やら切ったり貼ったりしてメイクと共に楽しんだ。

もう・・・・イってたね、当時は。
そういえば、この時に一回だけセブンティーンのモデルで表紙を飾ったこともあったっ
け。

卒業してからはその友人たちはことごとくファッションメーカーへ就職した。

今もデザイナーやらパタンナーで活躍している。
僕は・・・・その専門学校の2年次にはすでに服には興味が無くなっていた。

自分で創った服を着て、友人数人で原宿で路上パフォーマンスしてた。
完全に普通・・・からはズレまくっていた。異質、特殊、非日常、、、
そんな世界にどんどんハマっていった。

前衛芸術だ、これ!といって結果を振り返り気づいた。これも普通と逆。
ハマるって面白い。ジャンルとか分野とかすべての壁がなくなっていくカオス。

ある日曜日の原宿。ホコ天でいつものようにパフォーマンスをしていると顔見知りだった
草月流の師範の先生がある変な人を連れてやってきた。

とんがる、そしてぶっ飛ぶ
真ん中の人、滑川五郎 左が僕 右は高柳という友人


見た目も、ファッションも変だ。変な人には慣れていたが、
超個性的なムードを漂わせていた。鋭い目つきに坊主頭にひげ。日本人離れした体系に
これも日本のものではない服装・・・。

それが山海塾の滑川五郎だった。通称、ゴローさん。

皆さん!!山海塾って知っていますか? 検索してみてください。
そこには素晴らしい世界が広がっています(笑)

これが僕の学生から社会人になった時の一番初めの社長?上司?指導者?先生?なのだ。

変に大自然と一体化している人でした。
生まれてこの方、歯を磨いたことなし!!食事は一日トマト一個!!お酒は飲むしタバコは
吸う!!!喧嘩はするし、言うことが支離滅裂!!!
しかし、文学に長け、海外のアーティストがなぜか慕ってくる。スタイルは抜群で
踊りも上手く、品もあった。まぁ、強烈な人でした。

この師匠と毎日一緒に過ごしていると時間の流れ、常識の流れ、万物流転、すべてが
違って見えてくるのです。

この時代の体験は絶対にお金で買うことができない物凄く貴重な体験だったということが
時間と共にじわりじわりとわかってきた。

山海塾というのは舞踏集団。昔は何と!東芝のコマーシャルにも出たことがある。

今は恐らく大半の人が知らないと思う。そもそも舞踏というものは暗黒舞踏・・・
という名称から始まった。
山海塾に関しては暗黒舞踏というカテゴリーには所属しないと思う。

山海塾
山海塾


Wikipediaにはこう書いてある。————————
暗黒舞踏(あんこくぶとう)は・・・・・
日本の舞踊家土方巽を中心に形成された前衛舞踊の様式で、前衛芸術の一つ。
日本国外では単にButoh(ブトー)と呼ばれ、日本独自の伝統と前衛の混合形態を持つ
ダンスのスタイルとして認知されているが、誤解または独自解釈も多い。
なお、現在は、「暗黒舞踏」ではなく、たんに「舞踏」とだけ呼ぶのが一般的である。
「舞踏」には様々な流れがある。
————————

滑川5人衆


そして僕は、
1988年にブリスベン国際レジャー博覧会で五郎さんと一緒に踊った。
このオーストラリアが初の海外旅行だった。若干22歳。
約3週間滞在してこの時に人生の転機となる宇宙的体験をするのだった。

続きはまた今度。最後までありがとうございました。

高柳と吉田
22歳 オーストラリア・ブリスベンにて

ABOUT ME
ヴィッシュ吉田
JPMA日本理学手技療法協会 代表理事 フィットバランス療術学院 東京校学院長 株式会社ヴィッシュブレイン 代表取締役

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