
なぜ「上手い歌」より「伝わる歌」に心が震えるのか
最近、松田聖子さんのYouTubeをしみじみと見てしまった。
上手い!ただ、歌が上手いだけではない。
なんだ、こりゃ、みたいな感覚になったので、
今回はこのテーマで書いてみようと思う笑

これまでに、「この人の歌、なんか胸に響く」と感じたことはありませんか?
それは決して音程の正確さや声量の問題ではない。
むしろ、技術的には完璧ではなくても、不思議と心の奥に届く声がある。
それは決して音程の正確さや声量の問題ではない。
むしろ、技術的には完璧ではなくても、不思議と心の奥に届く声がある。
薬師丸ひろ子さんや玉木浩二さんなど、(偶然列挙)
その≪響くなにものか≫の違いは、まさに「テレパシック感性」にあると感じてしまう。
つまり、言葉を超えて心でつながる力。
人は音としての声だけでなく、その奥にある“意識の波”を感じ取っているのではないだろうか、と思えてしまう。
まさに、歌は、声という肉体を通して放たれるエネルギーの伝達だ。
その響きが、聴く人の内側に共鳴したとき、感動という現象が起こる。
つまり、言葉を超えて心でつながる力。
人は音としての声だけでなく、その奥にある“意識の波”を感じ取っているのではないだろうか、と思えてしまう。
まさに、歌は、声という肉体を通して放たれるエネルギーの伝達だ。
その響きが、聴く人の内側に共鳴したとき、感動という現象が起こる。
ちなみに、とても残念な話なのだが、沙也加さんが亡くなられた後の松田聖子さんの歌は、ググぅっとこみ上げてくる底力的なエネルギーがあった。
もちろん、歌唱力は素晴らしいのは当たり前で、それだけでなく、圧倒的な何かが魂をうち震わせた。
歌唱力とは、身体的技術と心の共鳴の融合である。
一般的に「歌が上手い」とは、音程が正確で、リズムが安定し、ブレス(呼吸)が整っていることを指すらしい。定義を調べてはじめてわかった。
ま、僕には縁のないことで、もちろん才能も持ち合わせてはいない。だけれども、久保田利伸さんや、ASKA、ミスチルの桜井さんなどはカラオケで歌いまくった。苦笑している周りなんか気にせずに笑
さてさて、
さてさて、
単に歌が上手いという人たちの技術はあくまで“土台”にすぎないのではないだろうか、などとふと感じた。
この歌の定義による、「歌唱力がある人」とは、声の一音一音にココロのエネルギーが宿っている人ではないか。
声とは単なる振動ではなく、その人の内面そのものが現れる気がする。
怒り、悲しみ、希望・・・それらの感情を押し殺さず、素直に響かせることができる人。
それが「共鳴する歌」を歌う人ではないだろうか。
声とは単なる振動ではなく、その人の内面そのものが現れる気がする。
怒り、悲しみ、希望・・・それらの感情を押し殺さず、素直に響かせることができる人。
それが「共鳴する歌」を歌う人ではないだろうか。
テクニックを超えた世界にあるのは、「ココロの透明度」。
つまり、どれだけ自分の本音とつながり、そのままを声にできるか。
そこに“テレパシック感性”が深く関わってくる。
つまり、どれだけ自分の本音とつながり、そのままを声にできるか。
そこに“テレパシック感性”が深く関わってくる。
感極まって、歌を歌いながら≪涙≫が出てしまう歌手を見ているとココロの振動と歌唱とがまるで一体化し、違ったエネルギーが放出されているようだ。
“声は周波数である” 音と意識の物理学的つながり
声とは、空気の振動であり、波である。
しかしその波は、単なる音の情報ではなく、意識の波動でもある。
たとえば、怒っている人の声を聞けば、言葉を理解する前に「怖い」と感じる。
それは音に乗ったエネルギーを、僕らが無意識に読み取っているからだろう。
しかしその波は、単なる音の情報ではなく、意識の波動でもある。
たとえば、怒っている人の声を聞けば、言葉を理解する前に「怖い」と感じる。
それは音に乗ったエネルギーを、僕らが無意識に読み取っているからだろう。
近年の研究でも、声の周波数が聴く人の脳波や心拍数に影響を与えることが分かっている。
つまり、歌声とは一種のテレパシー的現象⇒波動共鳴による意識の交換でもある。
つまり、歌声とは一種のテレパシー的現象⇒波動共鳴による意識の交換でもある。
だからこそ、どれだけ美しいメロディでも、ココロが閉じた状態では響かない。
逆に、ココロが開かれていると、たとえ一言のハミングでも涙を誘うことがある。
逆に、ココロが開かれていると、たとえ一言のハミングでも涙を誘うことがある。
テレパシック感性とは、感じ取る力と放つ力
「テレパシック感性」とは、ココロとココロを“言葉の外側”で表裏一体となり感じ合う力だ。
さも、その人の感じていることが、自分の感じている感覚として伝わってくる感覚。
「テレパシー」を訳せば、「精神感応」となるが、深く納得できる。
歌の世界では、それがそのまま“伝わる力”として表れる。
歌の世界では、それがそのまま“伝わる力”として表れる。
歌う側が深く自分の内面を感じ、正直な意識で声を放つとき、聴く側のココロは自然と共鳴する。
まるで魂同士が直接対話しているような瞬間。
この感性は、訓練で磨かれる。
単に「どう伝えるか」ではなく、「どんな意識状態で歌うか」。
怒りや悲しみを否定せず、そのまま声に変えていくこと。
感情を作るのではなく、“ありのままの感情”を歌詞に乗せて響かせていくことが、真の歌唱表現ではないかと思う。
単に「どう伝えるか」ではなく、「どんな意識状態で歌うか」。
怒りや悲しみを否定せず、そのまま声に変えていくこと。
感情を作るのではなく、“ありのままの感情”を歌詞に乗せて響かせていくことが、真の歌唱表現ではないかと思う。
心の状態が声に出て、心身と意識の一致が響きを生む
整体師として多くの身体を見てきて感じるのは、
心の状態がそのまま筋肉の緊張、呼吸の深さ、姿勢のゆるみとして表れるということだ。
そしてそれは、声にも如実に現れる。
心の状態がそのまま筋肉の緊張、呼吸の深さ、姿勢のゆるみとして表れるということだ。
そしてそれは、声にも如実に現れる。
喉が詰まる人は、しばしば感情を抑え込んでいるし、胸が固い人は、愛や表現を我慢していることが多い。
逆に、心が開き、呼吸が深い人の声は自然に空間に溶け込み、人を癒す。
逆に、心が開き、呼吸が深い人の声は自然に空間に溶け込み、人を癒す。
歌唱とは、まさに“心身と意識の調和”の表現。
だからこそ、テレパシック感性を育てるには、発声練習だけでなく、
身体の感受性を高めるワーク(整体・呼吸法・瞑想など)が欠かせない。義務教育に入れ込んでもらいたいと本気で思っている。
だからこそ、テレパシック感性を育てるには、発声練習だけでなく、
身体の感受性を高めるワーク(整体・呼吸法・瞑想など)が欠かせない。義務教育に入れ込んでもらいたいと本気で思っている。
聴く人の心を動かす“無言の通信”
真に感動を呼ぶ歌は、言葉ではなく“波”で届く。
リスナーは無意識のうちに、その人の魂の震えを感じ取る。
それは、言葉を超えた「無言の通信」・・・まさにテレパシーだ。
リスナーは無意識のうちに、その人の魂の震えを感じ取る。
それは、言葉を超えた「無言の通信」・・・まさにテレパシーだ。
ライブの空間で鳥肌が立つような瞬間。
そこでは、観客と歌い手が同じ意識の場を共有している。
音の向こうにある「生命の震え」が交わるとき、
僕らは“個”を超えた一体感を体験する。
そこでは、観客と歌い手が同じ意識の場を共有している。
音の向こうにある「生命の震え」が交わるとき、
僕らは“個”を超えた一体感を体験する。
音楽の真髄は、情報ではなく“共鳴”。
そして共鳴の根底にあるのが、テレパシック感性なのである。
そして共鳴の根底にあるのが、テレパシック感性なのである。
テレパシック感性を育てるための実践法
この感性は誰にでも備わっているが、現代社会では眠ってしまいがちだ。そして、素直に表現することがあまりよくないことだと洗脳されてさえいる気もする。
スマホやSNSの世界では、言葉と映像の情報が氾濫し、“感じる力”と“放つ力”の純粋化が摩耗している。
だからこそ、静けさを取り戻す時間が必要なのだ。
だからこそ、静けさを取り戻す時間が必要なのだ。
たとえば、
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自然の音を聴きながら深呼吸する
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歌う前に「今、何を感じているか」を見つめる
-
相手の声や呼吸を感じ取る練習をする
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自分の心身を客観的に観る
これらはすべて、テレパシック感性を磨く方法。感じ取る力が深まるほど、声に“本物の波動”が宿ると思う。
歌唱力とは、テクニックではなく、「心の静けさ」から生まれるパワー≪力≫なのだ。
歌唱力とは、テクニックではなく、「心の静けさ」から生まれるパワー≪力≫なのだ。
声は魂の翻訳装置である
最後に、僕が感じている真実をひとつ。
声は魂の翻訳装置である、ということ。
声は魂の翻訳装置である、ということ。
僕らは目に見えない感情や意識を、声という形で世界に放つ。
その声が、人の心を癒したり、励ましたり、涙を誘うのは、
単なる“音”ではなく、“魂の波”だからだ。
その声が、人の心を癒したり、励ましたり、涙を誘うのは、
単なる“音”ではなく、“魂の波”だからだ。
テレパシック感性が開かれたとき、
声は情報を超えて「祈り」や「愛」の次元に届く。
それこそが、人間という存在に与えられた最高の表現力。
声は情報を超えて「祈り」や「愛」の次元に届く。
それこそが、人間という存在に与えられた最高の表現力。
歌うことは、魂が宇宙と共鳴する行為なのだと感じる。
【さいごに】
「歌唱力」と「テレパシック感性」は、実は同じ源から生まれている。
それは、感じ、伝え、共鳴する意識の力。
それは、感じ、伝え、共鳴する意識の力。
沙也加さんへの思いを胸に秘めて悲しみと苦しみの中から生まれてくる松田聖子さんの声の波動は魂を震わせる。
一度、ディナーショーに行ってみたい。
あなたの声にも、無限の可能性が眠っている。
もし歌う機会があれば、少しだけ、「静けさの中の地平線」からの振動を意識してみてほしい。
その声が「誰かの心に届く」という奇跡が待っているから。
もし歌う機会があれば、少しだけ、「静けさの中の地平線」からの振動を意識してみてほしい。
その声が「誰かの心に届く」という奇跡が待っているから。



