「テレパシック感性」とは、言葉を超えて相手の本質を感じ取る力。
といっても何も特別な力ではなく、誰もが持っている力。
しかし、意識的に育むことで日常の幸福度、仕事の成果、人間関係すべてに大きな恩恵をもたらす力。
この「言葉を超えて相手の本質を感じ取る力」こそが、いまの時代に必要不可欠な人間の“根源的能力”であると確信している。
この言葉を超えて相手の本質を感じ取る力ってすごい
かなり前の話にはなりますが、ホームページの依頼を3社にあいみつしたときのこと。全ての会社の担当に同じ話を身振り手振りで伝えたところ、3社ともイメージページが全然違った。
一番静かに、そしてジッと僕の話を聞いてくれた担当の方が、まさに、ドンピシャ。まるでこちら側のイメージを全部見透かされているようなデザインが出来上がってしまった。
これこそ、「テレパシック感性」に他ならない。
先述したエピソードは、たかがホームページ制作という業務的な場面に見えるかもしれないが、実はこの一件には、人間が本来備えている「感じる力」がいかに現実を左右するかという重大なヒントが含まれている。
3社に依頼をしたとき、私は皆に間違いなく同じ話をした。情熱をこめ、手振り身振りで表現し、言葉にも配慮して、どうにかイメージしてもらおうと必死になった。
にもかかわらず、提案されたページの内容にはまるで別の世界観が展開された。言語情報は同じでも、それを「どう受け取るか」「どう感じるか」が、これほどまでに異なるのかと、あらためて驚かされたのだ。
唯一、静かに深くこちらの話に耳を傾けていた担当者がいた。目を合わせ、相づちを打つわけでもない。ただ、こちらの発する言葉と、その奥にある思いの流れを、まるで音のない音楽のように味わっているような雰囲気を醸していた人物。
結果として、彼のチームから提出されたイメージは、私の意図を遥かに超えて、まだ言語化さえされていなかった“本質”を見事に表現していた。
恐らく、〝印象〟を彼はキャッチしたのだ。
これを「テレパシック感性」と呼ばずして何と呼ぼう
人は、言葉を介さずとも無数の情報を送受信している。声のトーン、目の動き、呼吸のリズム、皮膚の反応、微細な身体の緊張、そうしたもの全てが“感性の会話”をつくっている。実はこの非言語の情報こそが、言葉以上に多くの真実を含んでいる。
だが現代社会では、こんな感性の交換を無視するような流れが強くなっている。言葉にできないものは「曖昧」とされ、効率性や論理性を優先するあまり、「感じること」はしばしば脇へ追いやられてしまう。これこそが、私たちの感性を鈍らせている最大の要因である。
テレパシック感性は、無意識のうちに起こるものではない。
むしろ、日常の中で「意識的に育てていく」ことが求められていると思う。
例えば、施術の現場でもそう。整体師として25年以上、さまざまな方の身体に触れてきたが、最も効果的な施術ができるのは、技術や手順だけではなく、「その人の存在そのものにどれだけ深くチューニングできるか」にかかっていると感じている。
触れた瞬間に、身体の緊張が解ける。言葉にできない疲れがふっと流れる。そんな体験が日々起きるのは、私自身の技術が優れているからではなく、「今、目の前のこの人は何を必要としているか?」を、心から感じ取ろうとする触覚を立てた“態度”にある。
つまり、感性とは一種のアンテナ
感度の高いアンテナを持つ人は、相手の心の動きや、場の空気の変化を繊細に受け取る。しかしアンテナは使わなければ錆びてしまう。だからこそ、日常的に磨く必要がある。
感性を磨く方法は、実は特別な修行ではない。むしろとても地味で、静かな行為の積み重ねである。
まず一つは、「相手の話を聞くときに、自分の内的な対話を止める」こと。
人は話を聞いているようで、同時に頭の中では「次に何を言おう」「どう思われているか」などの内的ノイズが渦巻いている。
そのノイズを一度脇に置く。まっさらな状態で相手に向き合うことで、相手の奥から届く“微細な信号”をキャッチできるようになる。
もう一つは、「自然に触れる時間を持つ」こと。
自然界には人間の理性や言語を超えた秩序と美しさが存在している。風の音、葉の揺れ、土の匂い、月の光。このような自然のリズムに同調することで、人間の内側にある感性のチューナーが調整される。そしてこの調整が、他者との非言語的な共鳴を可能にしていく。
さらに言えば、「自分の心の動きに敏感になる」ことも大切だ。
人に対してイライラしたとき、悲しみがこみ上げたとき、何気ない瞬間にふと感動したとき。その“さざ波”のような感情の動きを無視せず、ただ観察する。そこにこそ、他者を理解する鍵が隠されている。感情に反応することを止めて、ただ観察するのだ。
「テレパシック感性」とは、決して超能力のようなものではない
それはむしろ、日々の中で育まれる“人間の本能的共感力”であり、言葉に頼らない“愛の表現”である。
これを取り戻すことで、私たちの世界はもっと静かで優しく、豊かなものになるはずだ。人と比べず、自分の内奥を意識することから。
SNS時代のいま、私たちは膨大な言葉と情報に囲まれて生きている。
でも、その裏側で、みんな深い孤独と“言葉にならない疎外感”を抱えている。だからこそ、「言葉を超えて伝わるもの」が、これからの人間関係やコミュニケーションの中心になれば、気を適度に使いあえる良好な関係性を築けるのではないだろうか。
「テレパシック感性」は、最初から完璧である必要なんかない
むしろ、うまくいかない日々の中で、「ああ、この人の奥に、こんな思いがあるのかもしれない」と印象として、一瞬でも感じたとき、それをよく吟味することだ。観察しながら。
その一歩が連なれば、やがて「言葉がいらない関係」私はあなた、あなたは私という超感覚的知覚状態が生まれてくる。パートナーと、家族と、患者さんと、職場の仲間と。
このような関係性の中で私たちは、孤独ではなく、共鳴の中に生きている実感を得ることができると思う。
これはきっと、未来の人類にとって不可欠な能力となるだろう。
AIや機械が発達し、言語による情報伝達が加速度的に拡張されていく一方で、「感じる力」こそが、私たちが人間である証しとなるのだから。
だから私は、この誰もが備えている「テレパシック感性」を、もっと多くの人に知覚してもらいたいと本気で思っている。
施術の現場だけでなく、教育、福祉、ビジネス、芸術、あらゆる場面でこの感性が活かされる未来を、心から願っている。
「おまえはすでに死んでいる」であってはならない笑(古いっ)
「あなたはきっと、すでにその感性を持っている!」なのだ。
ただ、少し忘れているだけかもしれない。ほんの少し、立ち止まり、相手の呼吸に耳を澄ますだけで、太古の記憶を思い出すように、それは必ず目覚め始める。
言葉を超えて届く印象。
それこそが、私たち人間に与えられた、最も尊いギフトなのだ。