私たちは日々、善と悪の間で揺れ動きます。
善とは他者を思いやり、正義を重んじる心。悪とは自己中心的な欲望や、他人を傷つける行為に映ります。しかし、この二つは単純な白黒では割り切れません。幸福感を考えるとき、善と悪の境界が私たちの心にどう影響するのか、深く見つめる必要があります。
善行は幸福感を高めます
例えば、困っている人に手を差し伸べたとき、胸に温かい気持ちが広がります。これは科学的に裏付けられており、利他的な行動は脳内でドーパミンを放出し、満足感をもたらすとのこと。
しかし、善を行う動機が「認められたい」というエゴに根ざす場合、幸福感は一時的なもの。純粋な善意は、自己犠牲を伴うこともありますが、その分、心の充足感は深いものになるんですね。たとえば、ボランティア活動で汗を流した後、疲れていても「やってよかった」と感じる瞬間は、善の力が幸福感に直結している証です。
一方、悪とされる行為はどうでしょうか。悪意ある行動、たとえば嘘や裏切りは、短期的には利益をもたらすかもしれません。しかし、長期的には信頼の喪失や孤立を招き、幸福感を損ないます。
興味深いことに、悪を行った人間が後悔や罪悪感を抱くことがとても多いと言います。それは元来、人の心に善の芽が根付いているからとも言えます。
この罪悪感は、自己反省を促し、善へと向かうきっかけにもなり得ます。たとえば、誰かを傷つけた後、謝罪して関係を修復できたとき、幸福感が再び芽生えるのですから。このように、悪は幸福感を遠ざける一方で、善への回帰を促す役割も持つのです。
大なり小なり人は揺れている
善と悪の間で揺れる私たちの心は、幸福感を求める羅針盤でもありますね。完全に善であることも、悪を全く持たないことも、人間には難しいのかもしれません。
大切なのは、善を志向しつつ、自分の弱さを受け入れる姿勢ではないか、と思います。
幸福感は、善と悪の葛藤の中で、自分と向き合い、他者と繋がることで育まれていくもの。
たとえば、家族や友人と心を通わせる瞬間、些細な親切を交わす日常に、幸福は静かに息づいています。「幸せ」はいつも日常生活の簡単で当たり前の中にひっそりとたたずんでいると思うのです。
結局、善と悪は対立するものではなく、幸福感を形作る両輪なのかもしれません。自分の行動を振り返り、善を少しでも選び取る努力が、心を豊かにする鍵なんだろうな、と感じます。
その自分の物差しで決めた「善悪」の基準をもって日常生活を過ごしていくことが、与えられた〝鍛錬〟なのかもしれませんね。
さて、本日もひとりひとりに向き合って精進しようと思います。
それでは、本日も施術に精進します。