日常生活における死生観と怒りの仏教的考察
私たち日本人の日常生活は、忙しさや情報の洪水に追われ、時に心の平穏を見失いがちです。
朝の満員電車、職場でのプレッシャー、SNSでの他者との比較や老後の不安まで・・・こんな日々の出来事や思いの中で、怒りがふと顔を出す瞬間はありませんか?
また、死や人生のはかなさについて考えることは、日常の中では避けられがちですが、ふとした瞬間に心をよぎるものです。仏教の視点、特にアルボムッレ・スマナサーラ長老の教えに倣い、「死生観」と「怒り」について、今日は我々日本人の生活を振り返りながら書いてみたいと思います。
無常と真理
仏教では、すべてのものは無常であり、変化し続けるという真理を教えてくれます。スマナサーラ長老は、「無常を理解することは、人生を正しく生きる第一歩である」と説きます。私たちの体も心も、刻一刻と変化し、永遠に同じ状態でいることはありません。
死は、その無常のひとつの現れです。しかし、日本人の多くは、死を遠ざけ、日常生活の中で意識しないように生きています。病院での死、葬儀の形式化、またはメディアで描かれる死のイメージは、どこか現実感を欠いたものとして扱われがちです。目まぐるしく過ゆくこんな環境では、死を自分の人生の一部として受け入れることが難しくなります。
死は非日常的なものだと錯覚している
例えば、家族や友人の死に直面したとき、私たちは深い悲しみとともに、時に「なぜこんなことが起こるのか」という怒りを覚えることがあります。
この怒りは、死をコントロールできないことへの苛立ちや、愛する者を失ったことへの無力感から生まれるもの。
僕の父は20代前半で突然亡くなりました。死因は脳内出血。前日までピンピンして、近いうちに2人でお酒を飲みに行こうと約束しあったばかりでした。父親とサシで飲んだことが無かったので楽しみにしていました。
その日の夜に「お父さんが倒れた」と母から聞き、即座に病院へ。意識が戻らずに8時間後に息を引き取ったのです。言葉も涙も出てきませんでした。こみ上げてくる無力に対する「怒り」と深い「悲しみ」一週間くらい過ぎた頃です。父の遺品を見るたびに母の目を避け、1人こもってようやく泣き崩れたものです。
一冊の本に出会う
そんな時に出会ったのが、アルボムッレ・スマナサーラ長老の本でした。
スマナサーラ長老は、怒りについてこう述べています。「怒りは心の火であり、自分自身を焼き尽くす。怒りの原因は外にあると思うが、実は自分の心の執着が作り出すものだ」と。
日常生活でも、電車が遅れたとき、同僚の発言にイラついたとき、SNSで気に障る投稿を見たとき、私たちはすぐに怒りを抱きます。この怒りは、死に対する怒りと根底でつながっています。それは、思い通りにならない現実への抵抗であり、変化を受け入れたくない心の現れです。
死生観を意識する
仏教の教えでは、死生観を据えることが、怒りを鎮め、心の平穏を得る鍵となる、といいます。死を避けるのではなく、人生の一部として受け入れることで、私たちは執着を手放し、無常の流れに身を委ねることができる、と。
しかし、そう簡単にはいかないもの。突然の肉親の死というものは想像以上に過酷でした。
朝起きて家族と過ごすひととき、職場での何気ない会話、夜に飲む一杯のお茶・・これらの瞬間は、すべて一度きりのもので、永遠には続きません。この「はかなさ」を意識することで、怒りに振り回される心が少しずつ落ち着いていくような気がします。スマナサーラ長老の「今この瞬間を大切に生きなさい。それが仏教の実践だ」という言葉には何度も助けられました。
死生観を養うための具体的な方法を考えてみる
まず、日常の中で「止まる」時間を持つことが大切です。忙しい日々の中で、5分でもいいので、静かに座り、自分の呼吸に意識を向けるマインド・フルネスの時間を取り入れてみてください。この時間を命の流れを感じて、無常を体感する機会にするのです。
次に、怒りが湧いたときには、その原因を急いで外に求めるのではなく、自分の心を見つめる意識の習慣をつけましょう。たとえば、「なぜ私はこの人に腹を立てているのか?」「この怒りはどこから来ているのか?」と自問することで、怒りが自分の期待や執着から生まれていることに気づくのです。
人は、家族や地域のつながりの中で生きている
このような、つながりの中で、死や命について語り合う機会を持つことも有効です。お盆やお彼岸の時期に、亡魂を迎える伝統的な行事に参加することは、死を身近に感じる良い機会なのです。スマナサーラ長老は、「死を思い出すことは、生きる力を与えてくれる」と説いています。死を意識することで、今日という日を大切に生きようという気持ちが芽生えるということなのです。
「反応」を客観視する
怒りについても、日常生活の中で実践できることがあります。
それは「反応」に注意するということ。たとえば、誰かにイライラしたとき、すぐに反応するのではなく、深呼吸をして一瞬、「間」をおくということ。その一瞬の「間」が、怒りの連鎖を断ち切るきっかけになります。
定番!「感謝の気持ちを意識すること」
怒りを和らげる助けになるのが言葉にしない感謝の念。家族が作ってくれた食事、友人の何気ない気遣い、同僚の協力・・など、何気ない小さなことに「ありがとう」と心の中でつぶやくことで、心が柔らかくなり、怒りが溶けていくのを感じるでしょう。ただ、言葉にしたほうが本当はいいのですけれどね。〝感〟じたことを〝言葉〟で〝射る〟と書いて「感謝」ですから。
便利で豊かになっていく一方、ストレスや競争意識に満ちている昨今。この状況の中で、仏教の死生観を取り入れることは、私たちに心の余裕を確実に与えてくれます。死を遠ざけるのではなく、命のはかなさを静かに受け入れることで、怒りに振り回されない、穏やかな心を育てることができます。
スマナサーラ長老の言葉を借りれば、
「人生は短い。だからこそ、愛と智慧をもって生きなさい」
今日という日を、
怒りに支配されるのではなく、
命の尊さを味わいながら生きていきたいものです。
それでは、本日も施術に精進します。