活動記録

施術家 吉田正幸のブログ

コミュニケーションを取ろうとする力がコミュニケーションをとっていく

コミュニケーション・・・

辞書には、気持ち・意見などを、言葉を通じて相手に伝えること。通じ合い。と書いてある。

更に、「社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達。(生物学)動物個体間での、身振りや音声、匂い等による情報の伝達」とWikipediaには書いてあった。

しかし、本来、人と人とがコミュニケーションをとることはできるのだろうか。

自分の内奥の気持ち・知覚・感情・思考すらよく理解できていないのに、他人の内奥を理解する、などということは、中々難しいことではないか。というより不可能に思えてくる。

だから、まず、「人と人とは、本来コミュニケーションとれない」という立ち位置に立ってみたらどうだろう。とにかくそう思ってみる。そこがスタートだ。

「あなたの気持ちわかるぅ~」などというのは、“何がわかるのかな?”と多視座的にみてみる。決してひねくれでは無くてね。

最も身近な人とのコミュニケーションにおいても、「本来、コミュニケーションはとれない」という立ち位置からスタートすれば、「コミュニケーションは本来取れないのだから仕方がない」と思える。

こちらが感じていることと、相手が感じていることに差があったとしても「はじめから大体わかっているつもり」だったので体制には影響はない。

こんなゆるい感覚で、なにげに感知しあって、「分かり合えないのだから伝えよう」として、よく聴き、細かく言葉にして、なんとか円満に関係性を構築しようという意識の方が大切だ。

頭から相手のことを理解しようとしたり、コミュニケーションは完全にとれるんだ、と思ってみたりしても、それは幻想にすぎない。

もし中途半端にわかっているつもりにでもなっていたとしたら、その期待が外れると怒りとなる。これが厄介だ。簡単にコミュニケーションにヒビが入ってしまう。

いずれ人は死ぬというバックエンドがあるから、生きがいを感じたいと思う。

それと同じようにたとえ恋人でも夫婦でも親子でも、「本来はコミュニケーションは取れない」というバックエンドがあってからのスタートであれば楽。

お互いに限りなくコミュニケーションを取ろうとする意識が発生してそれが引力になる。

このコミュニケーションを取ろうとする前向きな感覚。これこそが本来のコミュニケーションなのだろう。このように、人と人とは本来コミュニケーションは取れないという自覚は大切だ。

「世界」は自分の思い通りには変えられない。そして、「他人」も自分の思い通りには変えられない。ただ、限りなく“よくしていこう”という気持ちが世界も他人との関係も良くしていく。

この“よくしていこう”という意識。言語化されるまえの霧がかった、潜在的にたたずんでいる以心伝心のような知覚力≪テレパシック感性≫が、本当にコミュニケーションには必要だとつくづく思う。

人と人。
やっぱりコミュニケーションは取れないものなのだから、

まずは関心を寄せていくことから。